言語学において「能動」と「受動」の概念がある。現存するほとんどの言語において、能動でない文は受動であるし、受動でないものは能動として扱われる。しかし古代ギリシア語など、古い言語には「中動」と呼ばれる動詞の態が存在する。それは能動と受動のどちらにも属さず、その原理からいって能動と受動の様式から大きく外れた概念である。
本書はその中動態という動詞の態について、哲学、言語学の分野から迫ることで新たなる視座の存在を発見しようと試みるものである。
形式所相動詞というものがある。
形は受動だが、意味は能動を表すものである。「死ぬ・判断する・認める・癒す・思う」などが例になる。
また、言語における再帰性を含む文章。
動作主の動作の影響が自らに及ぶもののことである。「私は私をぶつ」などがそれにあたる。
これらの動詞は能動であろうか?受動であろうか?
さらに考えてみる。
「ピストルを突きつけられて金を出せと脅され、お金を差し出す行為」は能動であろうか?受動であろうか?
現代の言語ではこれらの状況をうまく表現することができない。なぜなら、我々はその言語形態および社会形態から言って、「意志」というものが個人に確かに存在し、「意思」によって行為を行使するという前提に基づいているからである。そしてその「意思」には責任がついて回る構造になっている。簡単に言えば、全ての物事は「能動的」か「受動的」な行為のどちらかに分類可能である、としているのだ。
だが我々の生活のあらゆる行為に、明確な意思が存在するだろうか。我々は、なにものにも邪魔されることなく自らの行為を選択できているだろうか。少年犯罪は、環境によらない明確な意思によって行われているのだろうか。アルコール依存から抜け出せないのは抜け出さないという意思によるものだろうか。あなたがその仕事や趣味を選んだとき、完全に白紙の自由な状態から選べていたのだろうか。責任の所在はどこにあるのだろうか?
私たちがこれらの事象をうまく捉えられないことは、中動態という発想を考えていくことでそのヒントを得ていくことができる。そして、読後には、世の中のあらゆる物事に対する見方が、まったく別の視座に立つことになる。
人生のどこかで必ず一読したい一冊。おそらく人生の名著ベスト10に入るもの。
(あったら楽になる予備知識。僕のように、知らなくても苦労はしますが理解はできます。「アリストテレスの時代の歴史的位置・可動態の概念・言語と思考の相関関係・ラテン語の起源や分布範囲・スピノザ・アーレントなど」)
以下、強烈なネタバレを含む、自分なりのまとめです。自分の復習用に、読後レベルでの記述を行なっておりますので、みなさんに誤読を誘発する可能性があります。基本的な間違いは無いと思うので、興味はあるが読む時間がない人には良いかもしれませんが、自分で読み進めていく楽しみを存分に味わいたい人は、スルーしてください。
意思は行為の起点として存在しているわけではない。行為主がその行為において責任を持てたという状況を逆算できた時に突如にして概念として出現する。そして、単純な歩くという動作だけでも、我々の行為を記述するために能動と受動という区分では不正確で不十分あり、収めきれない。我々は歩くときの全ての動作を意識的に行えているわけではないからだ。
太古に中動態なる概念があった。その概念は、言語と社会の進化によって、人間の認識と相克しながら変化を続け、今や失われている。そして言語とは、我々が運用規則を知っているにもかかわらず、完全に意識することのできない、不思議な何かを体現するものである。
紀元前1世紀アレクサンドリアで活躍した文法学者デュオニュシス・トラクスの「文法の技法(テクネー・グランマティケー)」には、のちに「能動態」「受動態」「中動態」と翻訳されることになる「エネルゲイア」「パトス」「メソテース」の語で動詞の態が記述されている。
このテクネーは長らくの間中動態が能動態と受動態の中間に位置するパースペクティブとして注釈され続けていたが、実際には能動態と中動態の対立の中に受動態が位置しているという読み方をすると、一気に説得力が増すことが分析できた(言語学者ポール・ケント・アンダーセン)。
バンヴェニストの議論によると、能動態と中動態の境界線となるものは、「主語が動詞の示す過程の内にあるか外にあるか」、つまり中動態は動詞の示す過程の内に主語が位置づけられている事態を示し、能動態はその過程が主語の外で完遂する事態を示す。
これは我々が普段使用している能動態の概念とは違うものになっている。なぜなら態の意味概念はその対立によって意味を確定しているからである。受動態と対立しないのであれば、能動態もまた異なる概念を獲得することになる。
つまり、中動態が存在していた世界では、「する・される」とは別の対立があったということになる。アーレントによれば、ギリシアには意思の概念がなかった。アリストテレスの哲学には、意思の概念が欠けていることになる。
バンヴェニストは、さらに言語は思考を規定するのではなく「思考の可能性を規定する」と述べる。ソシュールを極度に単純化すると「言語によって現実が分割・記述されて認識される」という考えに至る。イヌという言葉とオオカミという言葉を知っていると、よく似た犬と狼を見分けられるようになる、という推論である。だが、仮にこれを正の前提とした場合、言語によって説明できない新しい概念が言語ごとに現れるはずである。だが実際にはどんな言語であれ、最新の量子力学理論も唯物論的弁証法も吸収することができる。ということは、つまり、言語が思考を縛ることはしない。
だが、言語は思考の可能性と結びついている。なぜなら、言語は形式を持った意味作用の構造であり、つまり思考することは言語の記号を操ることだからである。そしてその場合、言語が思考に作用する場の設定がなされなければならない。それは現実の社会であり歴史である。
これを前提ととした時、中動態の存在と意思の不在が同時に両立していた古代ギリシアの哲学を捉え直すことには、新たな意義が生じると言える。
アーレントは意思の定義を問い直した。それによると、意思は過去からの帰結であってはならないという。過去から切断された、絶対的な始まりでなければならない。だが奇妙なことに、この意思の定義は、それ自身によって意思の不可能性を証明してしまう。純粋な自発性などあり得ない以上、意思だと思われるものも、やはり過去からの継続性を有すると言わざるを得ない。
ここで「権力」という言葉の定義を考える。フーコーは権力とは「行為に対する行為」であると述べる。相手の行為を規定するものを権力と定義するのである。しかし権力によって発生している行為は、能動と受動のどちらに属するのだろうか。こうして考えた時、やはり脅されてお金を差し出す行為のような、非自発的同意は能動と受動の区別の中にうまく位置付けられないことになる。
権力と暴力がしばしば混同されるのは、物事を能動か受動かで眺めてしまうからである。(フーコー的には、暴力は身体やものに働きかけることで強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざすもので、暴力の関係のもとには受動性の極みしか残されないものとしている。)
中動態は、一部の学者が神秘化したようなものではなく、むしろ我々の身の回りにあるありふれた事態を記述するのに便利なカテゴリーと言える。
ではなぜ中動態は言語の世界から姿を消したのか?ここで言語の歴史に触れる。
初めは能動と中動の対立があった。そこからさらに遡ると、動詞は名詞から発展し、それは最初は非人称表現という形態を獲得している(It rainsのようなもの。Itが何物もさしていない。)。動詞の原始的な形態は「する」と「される」を対立させるパースペクティブがあるわけではなく、「起こる」こと、すなわち出来事を表現するものであった。動詞の進化の過程において最初に現れたのは中動態ではないか。
また形式所相動詞というものがある。受動の形をしているが、意味は能動を示すもののことである(ラテン語の例;arbitror(判断する),auspictor(鳥占いをする),conspicor(認める),medicor(癒す),meditor(思う),opinor(考える)など)。これらは元々能動態を持たず、中動態で意味を表現していた。これらは中動態との結びつきが強かったために、能動受動のパースペクティブに言語が変換した時、うまくその枠組みに入ることができなかった動詞たちである。形式所相同士という例外として扱われてもなお放棄されなかったのは、これらがどれだけ例外的であっても、表現しないわけにはいかない観念であったことを示していると言える。
ここでスピノザに焦点を当てる。彼は「あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有する各々のものは、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。」と述べる。簡単に言えば「あらゆるものは絶えず他のあらゆるものから刺激や影響を受けながら存在している」というのである。こう考えた時、この世界に受動でないものはあるのだろうか?という疑問が残る。
スピノザはこれを、時間軸の細分化による解決を試みる。例えば我々が何か悲しい事態に直面して悲しくなるという状況を考える。この時、悲しみという感情が我々のもとに入ってくるわけではない。我々の感情は持続的に変化しているのであって、事態に刺激されることで持続的に変化している感情が「悲しみの方に向かって舵を切る」のである。
つまり外部の刺激によって、我々はその内部を変化させるプロセスを開始するのである。外部の原因がそれだけで我々を決定するのではないということだ。これは太陽の光が我々の肌を温めるような時にも同じことが言える。光は光としての性質を持つだけで、それを受け取って温まるのは肌の側の性質である。
この時、「外部の原因が他の様態に作用する段階と」、「様態が座となって変化の過程が開始する段階」の2つの段階を考えることができる。この前者を「能動(ある行為が行為者の外側に作用すること)」、後者を「中動(行為が行為者の内部に作用し、その作用の座となること)」と捉えることができる。スピノザは、同じ刺激でも個体ごとに変化の仕方が異なり、それがその個体の本質を示しているとした。
これを起点に、スピノザは能動と受動を考えた。我々の変化が我々の本質によって説明できる時、すなわち、我々の変化が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状はは個体の本質をほとんど表現しておらず、外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現していることになり、その個体は受動であるとする。
つまり純粋な能動や純粋な受動はあり得ない。それは度合いを持つものとして、二者択一ではない形で捉えられなければならない。中動態の概念を知っていれば、我々は常に外部から刺激を受けているが、それに対してどのような変化をしたいと考えているか、その本質をどれだけ大きく表現できるかによって能動的であるか受動的であるかが変わることを認識することができる。この概念を用いれば、受動態が中動態から派生してきた歴史的経緯もうまく説明できる。
そして、自由の対立は強制である。つまり、変化が自らの本質によってほとんど説明され得ない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。自由と強制もまた、変化の質として、度合いを持つものとして考えられる。
本質は我々一人一人に宿る。すなわち、自由になるための道筋も、一人一人異なる具体的なものになる。我々の世界は互いにあらゆる影響を及ぼし合っている。そして、世界が中動態で示される形で動いている事実を認識することこそ、自由になるための道となる。中動態の世界は、自由を志向するのだ。