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村上春樹氏の長編小説。


15歳の少年が主人公であるが、さまざまな場所でさまざまな物語が同時並行的に描かれ、最終的に一つのシーンとして帰結する形の小説である。


小説世界全体が幻想的イメージで描写されるため、キャラクターや世界設定は機能目的的に登場し、読者はその設定の謎を追うように読み進めていく形となる。ある種ミステリー的な読み心地のある作品である。


男女関係が男性目線的に描かれることが多く、また性描写が異様に多い。展開に古典文学的な匂いもあり、作中でも語られるように、「メタファー」が多重に重なった構造が感じられる。


夏にどっかり小説世界に入り浸るのにおすすめな一冊である。

世界の話題を席巻したアンディ・ウィアー著のSF小説。


何を語ってもネタバレになるので書きようがないのだが、物語は現在時点の時間軸描写と、過去時間軸描写が交互に繰り返されながら、読者視点における謎がひとつずつ解決されていく。一章ごとに謎が2つ増え、1つ解決されていくような流れが続き、後半に進むにつれてたくさんの謎が明かされていく快感がある。


筆者の描写によるものか翻訳によるものかは分からないが、物体や構造の記述に少し難があり、想像が難しい部分がいくらかあるが、読み進めていけばそれが物語の本質に関わりがないことに気づいていけるので、あまり気にせず進んでいただきたい。


さまざまな事象や問題を科学的知識を使って解決していくSF特有の快感もさながら、ヒューマンドラマとでもいうような物語の展開が、どこか第三者目線で見てコミカルかつシリアスに見えるような書き方がされており、それが本書の面白さの本質なのではないかと思える。


SFに慣れていなくても、理系知識に乏しくとも楽しめる気楽な一冊。

ある年、海でカヤッキングをしていた男性と女性が、ブリーチング(水面上に飛び上がって背面からダイブする行動)をする鯨に突如として遭遇した。そしてそのまま、男女は鯨に押し潰されてしまった。。。


この本は、その男性がそのクジラと何らかの形でコミュニケーションを取るために現代技術を駆使していく過程を描いたものである。


ネタバレにはならないので述べておくが、本書で結末は迎えられない。いまだにクジラと意思疎通を図ることは達成されていないのである。当時から現代に至るまでの行動生物学の発展や、鯨に限らずさまざまな生物同士のコミュニケーションを研究する学者や、著者が各地で各研究者を訪れる記録譚などがエッセイチックな様子で描かれる。


専門知識がなくとも楽しむことができ、科学的な知識を扱ったトピックもほとんど出てこないように描かれているので、誰でも現代の(2023年ごろ)研究最前線の様子を理解することができる。

慶應義塾大学在学の著名な言語学者今井むつみ氏による、言語が思考に与える影響についての研究を述べた一冊。平易に言い換えるなら、「異なる言語を持つ者同士は異なる思考様式を持ち得るのか。それならば、その形式や程度はどのくらいか。」という問いの形になる。

太陽や木、家など、明らかに視覚的に明瞭な境界線をもつ物体はほとんど言語において基礎語とよばれるオリジナルの名詞を持つ。しかし色や方角、時間、位置関係、物体の移動や数字など、目に見えないものや抽象的、連続的な概念に対してどれだけの数の名詞やその意味を持つ語が与えられているかは言語によって異なる。
つまり言語はこの世界において不明瞭なもの(近しい意味を持つ概念)に境界線を引き、線のこちら側とあちら側は異なるものであると指定するナイフの役割を果たすのである。その切り方が言語によって異なるということは、母語によって人間の世界の捉え方が変わり得ることを示唆している。

例えば色を表現する名詞を5つしか持たない言語話者と20以上持つ言語話者は、色覚に対する感受性が異なるだろうか。
文法的性をもつ言語話者は、それぞれの名詞が持つ文法的性に影響を受けて印象を変えるだろうか。
右や左を意味する言葉を持たない言語話者の空間認識形式は、持つ言語話者とは異なるだろうか。

このような問いに対する研究結果から、今度はあらゆる幼児がもつ普遍的な認識様式を探っていく。

筆者の研究材料の出所の多さに驚く一冊である。日本語やフランス語などメジャーな言語だけでなく、オーストラリアや南米の一部の民族で話される言語から例を挙げる、といったようなことが枚挙に暇がない。また、ある研究結果から次にどのような研究主題を導くか、という方向性から筆者の知性を強く感じることができる。

特に変わった前提知識の要らない、優しい新書である。
自分が割と仕事でうっかりミスをしがちな人間なので、読んでみました。

想定外に「具体的な手段の羅列」が多かったのと、自分の職種(教職)に強い関連性のない内容も多かったので、速読に近い形での流し読みにしました。

神経生理学や心理学的な内容というよりも、仕事術的な側面が強いです。
ビジネス系の仕事をしている人向け。
作家・書評家の三宅香帆氏著、内容はタイトルが分かりやすく明示してくれている。

結論から言うと、「資本主義社会は生活に関わるあらゆる側面が、我々に全身でコミットすることを求めてくるように構造的にできており、そういった生活に浴した状態にいると、複雑な(情報という形としてノイズが除去されていない)文脈や歴史、知識を受け入れる余裕が生活から無くなりやすい傾向にあるため、読書という範囲の不明瞭な知識が大量に流入してくる活動はまずもって敬遠されやすくなる。」という論旨である。

本書では「他者の歴史や文脈など、時間、量、ジャンル的な側面からみて複雑さを持った総合的な知識」と「正確性と有用性が時間的に限定される可能性があるほどに即時性を持った、ある問いに対してそれ以外の答えとしての用途を持たない情報」を対立するものとして挙げ、この対立する2つの概念が歴史的にどう社会で扱われてきたのかを戦前から順を追って紐解いていく。
(人によってはその論程を冗長と感じる人もいるかもしれない。しかし読書史の要約として非常に楽しみやすいものになっている。)

参考文献や引用が多く、例えば中途で「啓発書とはコントローラブルなものにのみ目を向けさせる事に読者を誘導しようとする書籍であり、アンコントローラブルなものは生活にマイナスに作用するノイズとして極力意識の外に出そうとする。そして出自、学歴、環境など現在の位置に関係なく有効に作用するフラット性が、インターネットなどで情報やポジションなどの側面において個々人のフラット性が担保される面に近似している。」と指摘する。タイトルからは想像されづらい分野における主張が幅広く枝葉末節に点在し、その程度のわきまえ具合が、著者の読書の楽しみ方に対する理解や、論拠をどこまで担保するべきか、という倫理観として感じることができて心地良い。カッコつけのない展開である。

主旨からは遠ざかりすぎることはないが、寄り道を楽しめること自体が読書の良い面であると著者は述べる。

このタイトルに惹かれる人ほど「明確で分かりやすく即納得できるような結論」を期待するかもしれないが、そういう人ほどゆったりと最終章まで辿り着くべきである。

なお、労働観に関する記述は別分野の人間の仕事であるため、あくまで著者の私見として受け止めるべきである。
千葉雅也氏の著作の中でも、小説を除いて特段に一般向けに書かれた一冊。

センスとは何か、を彼の専門分野であるジル・ドゥルーズで言うところの「生成変化」「差異と反復」「脱意味」のあたりのワードに対応させながら分解して構造を探っていく。

主旨としては「センスとは何かを知ることで、みんなが肩の力を抜いて芸術を楽しめるようになろう。そして、ゆくゆくは誰でもが制作者側に(視点だけでも)立てるようになれば、それはきっと豊かなはずだ。」というところである。

主に「遊びによる自己の拡大」と「境界線問題」「報酬予測誤差に対する統計学的な対応の姿勢」あたりが主題となる。

分かりやすすぎず、分かりにくすぎない程度の強度で書かれているので、トライするには充分楽しいものになるはずの一冊である。
三体シリーズのスピンオフ作品。作者は宝樹氏で、三体3部「死神永生」が刊行されてからなんと1ヶ月の間に書き切ったとのこと。

インターネットに連載していたところ絶大な人気を獲得したため出版が決まり、世界各国で翻訳されている。今回も和訳は三体公式シリーズと同じ大森氏が務める。

全体的に3部の空白部分を埋める内容となっており、登場人物も公式と同じだが、舞台背景の設定増しやエンディングの続きは宝樹氏のオリジナルとなっている。

書き味に物書き初心者という感じはあまりない。魅せ方や展開の臨場感、風景描写など、様々面で劉慈欣氏とは違いがあるものの、一冊の本としてはきちんと成立している。

三体世界ロスの人には慰めとなる一冊。
公式を強く支持し、細かい違いが気になる人には恐らく向かないが、戯れに読むには非常によくできたスピンオフである。

社会科の、義務教育における名のある実践家たちの実践の、その後を追った評論。
評論と言っても、カッチリと結論を狭く打ち出すわけではなく、幅広く調査結果を述べてくれているオープンマインドな一冊である。

かつては、教育において「実践」という風土が根強く残っていたことを思い出させられる。それは教師のこだわりとして、または受験戦争における不評として、またはカリキュラムの精製過程の澱として姿を消していったのだろうか。

教員が日々行う教育活動の評価基準はなにか。また評価時期はいつか。これは変数の多い複雑な問いである。本書は、様々な実践家の実践を実際に体験した生徒たちに、数十年越しにインタビューを試みたもの。今や社会の中核を担う年齢になった元生徒たちが語る当時の回想は、教師の意図とは異なる形で受け止められていたというものがほとんどのようだ。しかし、実践家たちの熱意だけはほとんどの生徒に伝わっているように思う。

この本を読んで、黄石公と張良の逸話を思い出さずにはいられない。

黄石公に兵法の奥義を授かりに来た張良は、何日経っても奥義を教えてもらえず、黄石公がわざと落とす沓を拾わされるだけである。張良は、黄石公ほどの人物がわざわざ自分にこんなことをさせるには、何か意味があるはずだ、と考えた。そして張良は、兵法の奥義をひとりでに悟り、黄石公に礼を言って去った。

有名な話で、「生徒は自分の中で分かっていることを再発見する」と解釈されることもある。いずれにしても「尊敬と信頼」「謙虚と忠実」がキーワードとなる。著書に登場する四人の実践家たちも、その溢れんばかりの熱量から、生徒から一定の尊敬と信頼を集めていたのだろう。

インタビューを受けた生徒の中には、実践の教材内容自体を真に受けとめ、人生の糧とする者は多くはなかったかもしれないが、それをきっかけに多くのことを考えるようになったり、視野が広がったり、実際にその分野に強い関心を持つようになる者もいた。

教員が与えられるものとはなにか。教科が担っている社会的責任とはなにかを考えさせられる一冊である。
SF金字塔、ジェイムズ・P・ホーガンの1977年初版の初長編作品。

月面で、赤い宇宙服に身を包んだ遺体が発見された。そしてなんと、その遺体は5万年前のものだった。彼の身元とは。

身元が明らかになるにつれて余計に深まる謎。それはまるでミステリのアリバイ崩しのようで、真実に迫っていく過程にサイエンス・フィクション的快感が詰まっている。
ストーリーというよりもアイデア描写の側面が強いが、それがSF的な感覚的快感をじわじわと呼び起こす。

活字好きなら一度は味わいたい作品。

防災学習の伝家の宝刀のような扱いを受けるハザードマップは、実際に役に立っているのか。逆に避難の足かせになってはいないか。形骸化していないか。ハザードマップを知るだけでいいのか。減災できた使用例、増災してしまった例。


多くの観点からハザードマップの存在や利用方法を再考察した非常に前向きな一冊。

タイトル通り、人為的な行為や行政システムの欠陥によりどのような災害が増えうるのかを手厳しく指摘し、それに対する解決策を提示した一冊。


基本的にはエントロピーの増大則により、環境はある一定の安定状態へと遷移する。そのため自然災害は、急激な太陽活動や地殻変動など、エネルギーのスケールがかなり大きい物理現象の偶発的な活動によって起こることが多い。しかし人為的に環境を変えると、その変わった環境に対する安定状態を目指して環境が遷移するため、その過程で人間が被害を被る(つまり災害が起こる)。その例を多く列挙してくれている。