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京都大学の教育学部の教授を勤めながら、児童心理カウンセラーとしても有名な河合隼雄氏の、子供に対する教育のあり方についての論を述べたもの。


様々な非行(と一般には扱われるもの)の事例とその涵癒の過程から、子供を取り巻く昨今の状況がどのような影響を子供に与え、またそれが身体表現として表出するかについて明晰な分析がなされる。また、それらを通じて、子供、ひいては我々大人が持っている心のありようを探り、どのような関わり方や在り方が子供にとって良いものとなるのかが述べられている。


教員や福祉という視点に立って読んだ時に、非常にヒントに溢れる、必読とも言える一冊である。

河合隼雄氏の、現代人(1902年発行)への悩みや相談に対するエッセイ的回答を集めたのもの。

「新刊ニュース」と言う雑誌に1988年から1991年前で寄稿していたものを集めたものとなっている。


まだ生活に、言語的でないものが柱として存在していたが、科学的なものも入ってきて、整合性が取られようとしている時代に生きた、河合氏の暖かくも慧眼な視点が光る一冊。


成人が自身の心の収養のために読んでも良いが、教員や福祉に関わる者が、何か総合的で暖かな何かのヒントを得るためにもとても良い一冊。

言語学において「能動」と「受動」の概念がある。現存するほとんどの言語において、能動でない文は受動であるし、受動でないものは能動として扱われる。しかし古代ギリシア語など、古い言語には「中動」と呼ばれる動詞の態が存在する。それは能動と受動のどちらにも属さず、その原理からいって能動と受動の様式から大きく外れた概念である。


本書はその中動態という動詞の態について、哲学、言語学の分野から迫ることで新たなる視座の存在を発見しようと試みるものである。


形式所相動詞というものがある。

形は受動だが、意味は能動を表すものである。「死ぬ・判断する・認める・癒す・思う」などが例になる。

また、言語における再帰性を含む文章。

動作主の動作の影響が自らに及ぶもののことである。「私は私をぶつ」などがそれにあたる。

これらの動詞は能動であろうか?受動であろうか?


さらに考えてみる。

「ピストルを突きつけられて金を出せと脅され、お金を差し出す行為」は能動であろうか?受動であろうか?


現代の言語ではこれらの状況をうまく表現することができない。なぜなら、我々はその言語形態および社会形態から言って、「意志」というものが個人に確かに存在し、「意思」によって行為を行使するという前提に基づいているからである。そしてその「意思」には責任がついて回る構造になっている。簡単に言えば、全ての物事は「能動的」か「受動的」な行為のどちらかに分類可能である、としているのだ。


だが我々の生活のあらゆる行為に、明確な意思が存在するだろうか。我々は、なにものにも邪魔されることなく自らの行為を選択できているだろうか。少年犯罪は、環境によらない明確な意思によって行われているのだろうか。アルコール依存から抜け出せないのは抜け出さないという意思によるものだろうか。あなたがその仕事や趣味を選んだとき、完全に白紙の自由な状態から選べていたのだろうか。責任の所在はどこにあるのだろうか?


私たちがこれらの事象をうまく捉えられないことは、中動態という発想を考えていくことでそのヒントを得ていくことができる。そして、読後には、世の中のあらゆる物事に対する見方が、まったく別の視座に立つことになる。


人生のどこかで必ず一読したい一冊。おそらく人生の名著ベスト10に入るもの。

(あったら楽になる予備知識。僕のように、知らなくても苦労はしますが理解はできます。「アリストテレスの時代の歴史的位置・可動態の概念・言語と思考の相関関係・ラテン語の起源や分布範囲・スピノザ・アーレントなど」)






以下、強烈なネタバレを含む、自分なりのまとめです。自分の復習用に、読後レベルでの記述を行なっておりますので、みなさんに誤読を誘発する可能性があります。基本的な間違いは無いと思うので、興味はあるが読む時間がない人には良いかもしれませんが、自分で読み進めていく楽しみを存分に味わいたい人は、スルーしてください。







意思は行為の起点として存在しているわけではない。行為主がその行為において責任を持てたという状況を逆算できた時に突如にして概念として出現する。そして、単純な歩くという動作だけでも、我々の行為を記述するために能動と受動という区分では不正確で不十分あり、収めきれない。我々は歩くときの全ての動作を意識的に行えているわけではないからだ。


太古に中動態なる概念があった。その概念は、言語と社会の進化によって、人間の認識と相克しながら変化を続け、今や失われている。そして言語とは、我々が運用規則を知っているにもかかわらず、完全に意識することのできない、不思議な何かを体現するものである。

紀元前1世紀アレクサンドリアで活躍した文法学者デュオニュシス・トラクスの「文法の技法(テクネー・グランマティケー)」には、のちに「能動態」「受動態」「中動態」と翻訳されることになる「エネルゲイア」「パトス」「メソテース」の語で動詞の態が記述されている。

このテクネーは長らくの間中動態が能動態と受動態の中間に位置するパースペクティブとして注釈され続けていたが、実際には能動態と中動態の対立の中に受動態が位置しているという読み方をすると、一気に説得力が増すことが分析できた(言語学者ポール・ケント・アンダーセン)。


バンヴェニストの議論によると、能動態と中動態の境界線となるものは、「主語が動詞の示す過程の内にあるか外にあるか」、つまり中動態は動詞の示す過程の内に主語が位置づけられている事態を示し、能動態はその過程が主語の外で完遂する事態を示す。

これは我々が普段使用している能動態の概念とは違うものになっている。なぜなら態の意味概念はその対立によって意味を確定しているからである。受動態と対立しないのであれば、能動態もまた異なる概念を獲得することになる。

つまり、中動態が存在していた世界では、「する・される」とは別の対立があったということになる。アーレントによれば、ギリシアには意思の概念がなかった。アリストテレスの哲学には、意思の概念が欠けていることになる。


バンヴェニストは、さらに言語は思考を規定するのではなく「思考の可能性を規定する」と述べる。ソシュールを極度に単純化すると「言語によって現実が分割・記述されて認識される」という考えに至る。イヌという言葉とオオカミという言葉を知っていると、よく似た犬と狼を見分けられるようになる、という推論である。だが、仮にこれを正の前提とした場合、言語によって説明できない新しい概念が言語ごとに現れるはずである。だが実際にはどんな言語であれ、最新の量子力学理論も唯物論的弁証法も吸収することができる。ということは、つまり、言語が思考を縛ることはしない。

だが、言語は思考の可能性と結びついている。なぜなら、言語は形式を持った意味作用の構造であり、つまり思考することは言語の記号を操ることだからである。そしてその場合、言語が思考に作用する場の設定がなされなければならない。それは現実の社会であり歴史である。

これを前提ととした時、中動態の存在と意思の不在が同時に両立していた古代ギリシアの哲学を捉え直すことには、新たな意義が生じると言える。


アーレントは意思の定義を問い直した。それによると、意思は過去からの帰結であってはならないという。過去から切断された、絶対的な始まりでなければならない。だが奇妙なことに、この意思の定義は、それ自身によって意思の不可能性を証明してしまう。純粋な自発性などあり得ない以上、意思だと思われるものも、やはり過去からの継続性を有すると言わざるを得ない。

ここで「権力」という言葉の定義を考える。フーコーは権力とは「行為に対する行為」であると述べる。相手の行為を規定するものを権力と定義するのである。しかし権力によって発生している行為は、能動と受動のどちらに属するのだろうか。こうして考えた時、やはり脅されてお金を差し出す行為のような、非自発的同意は能動と受動の区別の中にうまく位置付けられないことになる。

権力と暴力がしばしば混同されるのは、物事を能動か受動かで眺めてしまうからである。(フーコー的には、暴力は身体やものに働きかけることで強制し、屈服させ、打ちのめし、破壊し、あらゆる可能性を閉ざすもので、暴力の関係のもとには受動性の極みしか残されないものとしている。)

中動態は、一部の学者が神秘化したようなものではなく、むしろ我々の身の回りにあるありふれた事態を記述するのに便利なカテゴリーと言える。



ではなぜ中動態は言語の世界から姿を消したのか?ここで言語の歴史に触れる。

初めは能動と中動の対立があった。そこからさらに遡ると、動詞は名詞から発展し、それは最初は非人称表現という形態を獲得している(It rainsのようなもの。Itが何物もさしていない。)。動詞の原始的な形態は「する」と「される」を対立させるパースペクティブがあるわけではなく、「起こる」こと、すなわち出来事を表現するものであった。動詞の進化の過程において最初に現れたのは中動態ではないか。

また形式所相動詞というものがある。受動の形をしているが、意味は能動を示すもののことである(ラテン語の例;arbitror(判断する),auspictor(鳥占いをする),conspicor(認める),medicor(癒す),meditor(思う),opinor(考える)など)。これらは元々能動態を持たず、中動態で意味を表現していた。これらは中動態との結びつきが強かったために、能動受動のパースペクティブに言語が変換した時、うまくその枠組みに入ることができなかった動詞たちである。形式所相同士という例外として扱われてもなお放棄されなかったのは、これらがどれだけ例外的であっても、表現しないわけにはいかない観念であったことを示していると言える。



ここでスピノザに焦点を当てる。彼は「あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有する各々のものは、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。」と述べる。簡単に言えば「あらゆるものは絶えず他のあらゆるものから刺激や影響を受けながら存在している」というのである。こう考えた時、この世界に受動でないものはあるのだろうか?という疑問が残る。

スピノザはこれを、時間軸の細分化による解決を試みる。例えば我々が何か悲しい事態に直面して悲しくなるという状況を考える。この時、悲しみという感情が我々のもとに入ってくるわけではない。我々の感情は持続的に変化しているのであって、事態に刺激されることで持続的に変化している感情が「悲しみの方に向かって舵を切る」のである。

つまり外部の刺激によって、我々はその内部を変化させるプロセスを開始するのである。外部の原因がそれだけで我々を決定するのではないということだ。これは太陽の光が我々の肌を温めるような時にも同じことが言える。光は光としての性質を持つだけで、それを受け取って温まるのは肌の側の性質である。

この時、「外部の原因が他の様態に作用する段階と」、「様態が座となって変化の過程が開始する段階」の2つの段階を考えることができる。この前者を「能動(ある行為が行為者の外側に作用すること)」、後者を「中動(行為が行為者の内部に作用し、その作用の座となること)」と捉えることができる。スピノザは、同じ刺激でも個体ごとに変化の仕方が異なり、それがその個体の本質を示しているとした。

これを起点に、スピノザは能動と受動を考えた。我々の変化が我々の本質によって説明できる時、すなわち、我々の変化が我々の本質を十分に表現しているとき、我々は能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状はは個体の本質をほとんど表現しておらず、外部からの刺激を与えたものの本質を多く表現していることになり、その個体は受動であるとする。

つまり純粋な能動や純粋な受動はあり得ない。それは度合いを持つものとして、二者択一ではない形で捉えられなければならない。中動態の概念を知っていれば、我々は常に外部から刺激を受けているが、それに対してどのような変化をしたいと考えているか、その本質をどれだけ大きく表現できるかによって能動的であるか受動的であるかが変わることを認識することができる。この概念を用いれば、受動態が中動態から派生してきた歴史的経緯もうまく説明できる。

そして、自由の対立は強制である。つまり、変化が自らの本質によってほとんど説明され得ない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。自由と強制もまた、変化の質として、度合いを持つものとして考えられる。

本質は我々一人一人に宿る。すなわち、自由になるための道筋も、一人一人異なる具体的なものになる。我々の世界は互いにあらゆる影響を及ぼし合っている。そして、世界が中動態で示される形で動いている事実を認識することこそ、自由になるための道となる。中動態の世界は、自由を志向するのだ。



政治の基本原理となる地政学を非常にわかりやすく解説してくれる一冊。

特に執筆がウクライナ戦争後なので、中世から現代まで通ずる地政学の法則的なものに説得力を与えている。


国家を地理的条件から「海洋国家」と「大陸国家」に分ける概念があり、それをベースにそれぞれの国家の生存戦略を考えると、これまでの戦争政治がうまく説明できるという話である。


図解、言葉遣いがとにかく平易でわかりやすい。予備知識がさほどいらない(近代の世界大戦前後の知識があると尚良いが)という、入門書としてうってつけの本である。

宮城谷昌光氏の中国戦国春秋時代の歴史小説。

4篇が蔵された短編集である。


侠骨とは「わが身を惜しまず、人の難儀を救いに駆けつけ、生死の境を渡っても、才能を自慢せず、施した恩を誇るのを恥とする者」の気骨、人格をいう。

魯の里人宰相である曹沫、聖人として中国古代神話上の人物としても扱われる虞俊、周王朝建国の功労者召公奭、五羖大夫と呼ばれた賢相百里奚。以上の四人の物語である。


宮城谷氏の持つ淡々と、しかし情に触れるような温もりのある筆致が味わえる短編集。

西遊記の三蔵法師のモデルとなった唐代の僧・玄奘が、実際に中国からチベット・トルクメニスタンなどの地域を経てインドの当時世界最大である仏教大学ナーランダー寺院に辿り着き、唐まで戻ってくる話。


これは史実であるため、ある種人類史上最も過酷な旅を描いたロードムービーとも言える。


途中賊に出会って丸裸にされたり、官吏に見つかって目の前に矢が飛んでくるなど、さまざまな困難を乗り越えて唐に大量の経典などを持ち帰ってくる。そして玄奘が相当な頭脳の持ち主であるため、行く先々で人々の尊敬を集めていく様は見ていて気持ちがいい。


史料の分析にかなり注力しており、ある種の論文としても扱えるレベルになっている。それでいて物語風でもあるので、面白い一冊となっている。


「三体」でおなじみの劉慈欣氏が書かれたSF短編集。


訳者を三体と同じ大森・泊氏が務めるため、三体と同じ雰囲気の文章を楽しめる。

著者が三体を書く前に書き上げたものがたくさん収められている。その中には三体に登場したプロットやアイデアの原型が散りばめられていて、この短編をすべて合体させて各種の要素をイコライザーしたら三体が出来上がるのか、というような捉え方ができなくもない。


相変わらず楽しい文章を書く人だと思わせられる。

日本を代表する社会学者のふたりが仏教について色々と対談していくもの。


仏教の、特に起源の部分や部派仏教と大乗仏教の別れや違い、唯識や空の定義について、哲学領域やキリスト教、イスラム教との比較を用いながら微に入り細に入って語り合っていく。基本的には大澤さんが橋爪さんに鋭角な質問を投げかけ、それを深いところから回答していくことであらゆることの定義の輪郭を明らかにしていくという形式をとっている。


特に難しいとされる空の概念や唯識論のベースについて、理論的な堅い言葉だけでなくわかりやすい話し言葉であったり、日常的なことでの例示など、口語ならではのわかりやすさが散りばめられているように感じる。

1987年初版の時代小説。


日本の多くの幕末志士たちの師として名高い吉田松陰の劇的な30年間を描いたもの。適宜史料を参照しながら、その間を山岡氏の巧みな想像が埋めてゆく作品。


87年のものなので、言葉遣いはほとんど現代と変わらない。だが筆致は極めて質実なもので、不要な軽快さや重厚感を持たせたりしておらず、非常に読みやすい。

ただし後半に行くにつれて筆者の熱が高まり、特に「神風の吹く日本国」的なイデオロギー的書き方が目立ち始める。それを気にせず通り過ぎて仕舞えば、松陰がどのような人生を歩んだかについてがよく学べる一冊である。


彼が教師として心に留めおいた姿勢ができるまでの過程をなぞれることは非常に面白い。

旅と勉強を掲げる研究者として有名な出口治明さんの世界史の通史講義。


全くタイトル通りな書籍で、(本巻ではアメリカ大陸を除く)すべてのエリアにおける歴史を適度な内容で説明してくれる。年号目録的な書き方ではなく、因果関係に基づいた書き方をしてくれているため、ある種の歴史ストーリーを概観しているような気分になる。


紀元前から13世紀の、ヨーロッパにギリシア哲学が再輸入されるあたりまでをこの1巻では描いてくれている。一家に一冊的な本。

余命な社会学者である橋爪さんが「本のより良い読み方」というテーマをもとに、本の分類や関係性、見分け方だけでなく、人類が築き上げてきた学術の相関関係を大観し、さらに学ぶこととは何か、学ぶことが人生に対してどう関わってくるのか、について魂を込めて語りかけてくれる。


語りかけてくれるのが、この本の素晴らしいところである。